闘志を秘めた松坂世代最高の左腕・杉内俊哉投手

どうもマツローです。

“南国のドクターK”これは、杉内俊哉投手の、鹿児島実業高校時代の異名です。

その名の通り、杉内投手には奪三振のイメージがあります。高校3年夏の甲子園大会とプロ野球で、2度のノーヒットノーランを達成。他にも1シーズン2桁奪三振を11度達成し、史上2人目・左腕では初となる5試合連続2桁奪三振を達成するなど、杉内投手は数多くの奪三振記録を残しました。

しかし杉内投手は、投手としては小柄である上に球種も少なく、豪速球投手ではありません。杉内投手はどうして厳しいプロ野球界を生き抜き、三振の山を築いてきたのでしょうか。杉内投手の成績と共に、天才的な感覚で築き上げた投球術の秘密をひも解きます。

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輝かしいプロ野球人生の幕開け

杉内投手は鹿児島実業高校卒業後、三菱重工長崎へ入社。2001年のドラフト会議で、ダイエーホークスから3位指名を受け入団します。2年目となる2003年には早くも二桁勝利をあげ、日本シリーズMVPも獲得。

この時は誰もが杉内投手の輝かしいプロ野球人生の幕開けを信じて疑わなかったことでしょう。

しかし2004年、杉内投手は持ち前の気性の激しさゆえに、プロ野球投手としてあるまじき事件を起こします。

転機

2003年後半から血行障害に悩まされていた杉内投手は、開幕を迎えても調子が上がらず、いら立ちを抱えていました。

開幕から2ヶ月でわずか2勝という焦りの中、どう修正していいのかもわからない。そして6月のロッテ戦で2回7失点で降板後、自分への怒りでベンチを殴り、両手小指第5中手骨骨折という怪我を負ってしまいます。

異様な雰囲気を察した城島健司選手の制止も、頭に血が上った杉内投手には届きませんでした。杉内投手は骨が出ていたのを見て、やっと自分の愚行に気付いたそうです。

1年間を治療に要し、プロとしてあまりにも情けない事態を招いた杉内投手は、これをきっかけに野球に取り組む姿勢を変え、翌2005年、大きく躍進します。

開幕して間もなく2ヶ月連続で月間MVPを獲得し、218奪三振・18勝を挙げ、最多勝・最優秀防御率のタイトルを受賞。パ・リーグの左腕初となる沢村賞・リーグMVPを受賞しました。

2007年からは4年連続二桁勝利・2008年からは3年連続200奪三振をあげ、当時は打線の援護も少なかったチームを勝利へ導く活躍を見せたのです。

2003年
10勝 8敗 防御率3.38 169奪三振 ※日本シリーズMVP

2004年
2勝 3敗 防御率6.90 51奪三振

2005年
18勝 4敗 防御率2.11 218奪三振 ※最多勝・最優秀防御率・MVP沢村賞

2006年
7勝 5敗 防御率3.53 114奪三振

2007年 
15勝 6敗 防御率2.45 187奪三振

2008年
10勝 8敗 防御率2.66 213奪三振 ※最多奪三振

2009年
15勝 5敗 防御率2.36 204奪三振 ※最多奪三振・最高勝率・1000奪三振

2010年
16勝 7敗 防御率3.55 218奪三振 ※最高勝率

2011年
8勝 7敗 防御率1.94 177奪三振 ※通算100勝達成(当時最速)

この躍進のカギとなったのが、杉内投手の代名詞となる“脱力系フォーム”“チェンジアップ”でした。

魂の“脱力系”エース誕生

杉内投手は2005年のシーズン前、同僚だった川崎宗則選手に打ちにくい投手について助言を求めます。その際「キャッチボールみたいに力を抜いたフォームからピュッと投げられたらタイミングが取れない」と言われたことがきっかけで、杉内投手は力を抜くフォームに取り組みます。

左手をスッと上にあげ、リラックス。この動作は指先にたまった血液を戻すためでもあります。そして右足を上げた際に左手でグラブを軽く叩いて力を抜き、リリースの瞬間にだけ力を込める。これが脱力系フォームの基本となりました。

こうして完成したフォームは球持ちが良く、腕を振ってから球が来るとも言われ、打者はタイミングを狂わされます。

同時に精神面の改善にも取り組みます。負けん気の強い杉内投手は、“三振を取りたい”という気持ちを抑えるため、時には投球前に「俺やる気ない、やる気ない」とつぶやいていたそうです。

そして4年後の2009年、打者の目が慣れてきた頃、杉内投手は新たな武器を手に入れます。
それが“伝家の宝刀チェンジアップ”でした。

杉内投手は元々高校時代から大きく曲がるカーブを決め球としていましたが、新たに習得したチェンジアップはストレートと全く同じ腕の振りからスプリット気味に落ち、ストレートとの球速差は10㎞以上。打者からは「2回空振りができる」という驚きの声が上がりました。

ゆったりした動作と高回転のストレートは、豪速球とは言えないストレートにキレとノビを与え、130km台半ばのストレートを150㎞クラスに感じさせます。

このストレートとブレーキのかかったチェンジアップを武器に、2009年は最多奪三振・最高勝率、そして1000奪三振を達成。2011年には当時最速となる通算100勝を達成しました。

涙のFAと2000奪三振

しかし杉内投手の好成績に反して、球団の反応はあまりにも冷ややかなものでした。そして2010年の契約交渉の際に生まれた確執が原因となり、2011年シーズン後にFA権を行使し巨人へ移籍を決意します。

巨人へ移籍後まもなくノーヒット・ノーランを達成。しかも9回2死までパーフェクト、27人目の打者に四球という、ほぼ完全試合という内容にファンは沸き上がりました。移籍初年度から3年連続二桁勝利を達成し、リーグ3連覇にも貢献。そして移籍3年目となる2014年に2000奪三振に到達しました。

1930回2/3を投げての2000奪三振達成はプロ野球史上最速。投球回数が奪三振数を下回る数字で達成したのは石井一久投手と杉内投手のみという大記録を達成しました。

しかしそんな杉内投手の身体にも、ついに限界が訪れます。ソフトバンク時代に痛めた右股関節が徐々に悪化し、それをかばいながら投げていたことで左肩も痛めてしまったのです。

杉内投手は2015年オフに、股関節の大手術に踏み切ります。そして車椅子生活から始まったリハビリを耐え、2016年三軍で実戦復帰。2017年はあと1試合100球を投げられたら、一軍への復活を遂げるはずでした。

ところが再び左肩痛を発症し、リハビリ中に今度は右内転筋痛を発症。そんな辛い時を過ごす中で、杉内投手はある心の変化に気付いたと語ります。

それは二軍で若い選手と過ごす時間が増えた中で、だんだんと後輩を心から応援できるようになったという気持ち。

この心境の変化に勝負師としての違和感を覚え、体力の限界から2018年9月引退を発表しました。

プライドで投げるエース・杉内投手の残したもの

引退会見で杉内投手は「子供の頃に夢見たプロ野球選手が、一生続くと思いたかった」と語りました。そう思うプロ野球選手は多いことでしょう。

たくさんの失敗をして過ちも犯し、投げるのも怖くて眠れない日々も過ごしました。しかしそんな杉内投手を支えてきたのは、自身の持つ強い心。

自分を見つめ直すときも、球団との確執が生まれたときも、故障と戦う日々も、どんな時も杉内投手の心のうちには、熱い炎が燃えていました。

その負けん気の強さを強い心へと替えて自分を進化させたからこそ、決して恵まれた体格ではなかった杉内投手が、誰もなし得なかった偉大な記録を打ち立て“松坂世代最強の左腕”に成長できたのでしょう。

通算成績
142勝77敗 防御率2.95 2,156奪三振(現役最多)

最多勝:1回(2005年)
最優秀防御率:1回(2005年)
最多奪三振:3回(2008-2009、2011年)
MVP:1回(2005年)
沢村賞:1回(2005年)
ベストナイン:1回(2005年)

杉内投手の偉大さは天才的感覚で作り上げたフォームやチェンジアップだけではなく、投手としての正しい闘争心をもって立ち向かってきたこと。それこそが杉内投手の凄みを物語ると思います。

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