巨人・史上最強投手陣のエース!斎藤雅樹投手

どうもマツローです。

1990年代の読売ジャイアンツを思い出すとき、皆様はどんなイメージを思い浮かべるでしょうか。

名将・藤田元司監督・長嶋茂雄監督の復帰、三冠王・落合博満選手や清原和博選手・松井秀喜選手・高橋由伸選手などの活躍といった、華やかな試合ぶりが思い浮かびます。そんな90年代の巨人を支えた“投手3本柱”の一角を担い、「ピッチングの芸術」と称された伝説の投手が、斎藤雅樹投手です。

斎藤投手は18年の現役生活の中で、2年連続20勝をはじめ、7度の年間最多完封11連続完投勝利を記録し、日本プロ野球界伝説の試合のひとつ“10.8決戦”でも登板。投手最高の賞と呼ばれる沢村賞を3回受賞した、記録にも、そして記憶にも残る大投手です。

そんな1990年代の巨人投手陣を支えた大エース、斎藤雅樹投手とはどのような投手だったのでしょうか。

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心優しき遅咲きエース

斎藤投手は1982年、ドラフト1位で巨人から指名を受け入団。母校の市立川口高では甲子園出場経験はなく、この年のドラフトの話題は甲子園を沸かせた荒木大輔投手でした。

斎藤投手は打撃センスと守備力が評価され、荒木投手の外れ1位として指名を受けます。入団後はコーチからは遊撃手への転向が勧められていましたが、当時監督を務めていた藤田監督の判断で投手を続けることになります。

この時のアドバイスによりサイドスローに転向。これが功を奏し、1985年にはチーム最多となる4完封を含む12勝をあげます。

しかし成績は安定せず、時に中継ぎや敗戦処理などの役割を与えられることもありました。それは“ノミの心臓”と揶揄された、斎藤投手の人の良い一面が影響していたのです。

先発投手にはある意味強い心が求められますが、斎藤投手の気弱な性格はどこか先発投手としての信頼を得られないところがあったのです。

ミスター完投の開花

そんな斎藤投手は7年目となる1989年、復帰した藤田監督のアドバイスにより開花のきっかけをつかみます。

藤田監督は斎藤投手が“もう使ってもらえないんじゃないか”と怯えながら投げていることを見抜きます。

予てから「斎藤が自信をもったらすごい投手になる」と考えていた藤田監督は、「お前は気が弱いのではない。気が優しいんだ」と声をかけ、斎藤投手がマウンドに上がるのが怖いと言った時も「投手というのは慎重でないといけない。色々考えたら臆病になる。怖いというのはお前が色々考えている証拠だ。投手が慎重でなぜ悪い」と勇気づけ、辛抱強く先発で起用し続けたそうです。

恩師に背中を押され、斎藤投手は本当の実力を開花させます。この年20勝をあげ、防御率は驚異の1.62、自身初の沢村賞を獲得しました。

特筆すべきは先発した30試合で21完投し、うち7試合で完封勝利をあげていること。そしてプロ野球新記録となる11試合連続完投勝利を達成します。

さらに破竹の勢いは止まらず、1990年も2年連続の20勝・19完投・6完封をあげ、MVPを獲得しました。

藤田監督の信頼が斎藤投手を変えました。そして「ノミの心臓」の代わりについた新しい異名は「ミスター完投」

生まれ変わった斎藤投手は1993年から1997年まで5年連続開幕投手を務め、3年連続開幕戦完封勝利という、その名に恥じない活躍をみせたのです。

1989年
20勝 7敗 防御率1.62 
※最多勝・最優秀防御率

1990年
20勝 5敗 防御率2.17 
※最多勝・最優秀防御率・最高勝率

1991年
11勝11敗 防御率3.38

1992年
17勝 6敗 防御率2.59 
※最多勝・最高勝率

1993年
9勝11敗 防御率3.19

1994年
14勝 8敗 防御率2.53

1995年
18勝10敗 防御率2.70 
※最多勝・最多奪三振

1996年
16勝 4敗 防御率2.36 
※最多勝・最優秀防御率・最高勝率

1997年
6勝 8敗 防御率4.11

1998年
10勝 7敗 防御率3.08

平成サイドスローNo.1投手

ほぼすべての野球少年がオーバースローで野球を始めます。そしてアマチュア時代かプロ入り後、制球難からスリークォーターやサイドスローに転向することが多くあります。

しかし、ただサイドスローやスリークォーターに変えれば制球が良くなるというほど、単純ではありません。フォームを変え成功するには、適性を見極めることが大切です。

斎藤投手の場合もともと腰が横回転しており、上体が若干前屈みだったため、サイドスローへ転向しやすかったそうです。

そんな斎藤投手の投球フォームは、肩甲骨を寄せると筋肉が羽のように見えたというほど柔軟で強靭な背筋と、流れるような腕の振り・手首のスナップの上に成り立っています。

全体的に力を抜き、前足が着地すると上体の回転に引っ張られる形で、一度腕を上に担ぎます。肘を前へ出す際、腕を水平に寝かせて手の平を上に向け、肘をしならせながら前へ突き出し、後ろ足から前足へ重心を移動。そしてしなりによるタメを作った後、肩を前に出し、しっかりと手首のスナップを効かせリリースします。

この手首のスナップスローと全体がしなったタメのある腕の使い方を組み合わせ、バランスを取りながらリリース直前のみに力を注ぎこむイメージで投げています。

そんな斎藤投手のストレートは140kmを超え、シュート変化をみせながら球威・ノビ・制球力を備えていました。そして鋭い変化をみせるカーブやシンカー、当時“真っスラ”と呼ばれた小さく曲がるスライダーを織り交ぜ、打者を打ち取っていたのです。

綱渡りの現役生活

1995年・1996年は2年連続沢村賞を獲得する活躍を見せるも、もともと細かな故障があったことや勤続疲労も重なり、1997年に右腕の故障、1998年には内転筋の故障に悩まされます。球速は出るもノビ・球威を欠いたストレートは全盛期とは程遠く、数字には表れない不調に苦しみます。

その後満身創痍の中、フォームを変えながら斎藤投手は投げ続けますが、故障続きの身体に限界を感じ、2001年、同時代に巨人を支えた槇原寛巳投手・村田真一選手と共に引退を表明。ひとつの時代の終わりを感じる年となりました。

通算成績(実働:18年)
180勝96敗11セーブ 防御率2.77 113完投40完封

MVP:1回

沢村賞:3回

最多勝:5回

最優秀防御率:3回

最多奪三振:1回

最高勝率:3回

最多勝・最優秀防御率・沢村賞を幾度の獲得しながらも、200勝には届かなかった斎藤投手。しかし113完投40完封という記録が、完投自体が減ってしまった現代のプロ野球を鑑みるに、どれだけ圧倒的な記録であったかを物語ります。

完投の減少に伴うジレンマ

打者の技術が上がると共に、投手は球速アップや肩・肘に負担が大きい変化球も増やさなくてはならなくなりました。完投は場合によっては一人の投手の球数が増え、その分負担が大きいという懸念もあり、MLBでもNPBでも先発投手のイニング数は減少傾向にあります。

しかし一人の投手が大切な試合を任されたことを意気に感じ、相手打線を抑え込む快進撃は、見ている私たちも胸がすくような爽快感を覚えます。引退後、指導者として活躍している斎藤投手には、自身の経験を活かした投手育成や私たちに感動を与える投手戦を、再び期待してしまいますね。

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