逆風すら愛した叩き上げの侍 小久保裕紀選手

どうもマツローです。

今回紹介する選手は、青山学院大学では文武両道の優等生、プロ野球では福岡ダイエーホークス・読売ジャイアンツを渡り歩いた小久保裕紀選手です。

小久保選手は本塁打王・打点王・2000本安打など輝かしい成績を残した名選手で、どのチームでもキャプテンを歴任するなど強いリーダーシップが評価され、2017年WBC日本代表監督にも就任しました。学生時代、プロ生活そして現役引退後とまさにエリート街道を歩んできた野球人生にも思えます。

そんな小久保選手はとにかく真面目でストイック。そのストイックさはアマチュア時代に培われ、プロ野球で数々の怪我に悩まされたときも不遇の時も小久保選手の支えとなりました。

今回は華やかな成績の裏で努力を積み重ねた小久保選手の、波乱万丈な野球人生を振り返ります。

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屈辱

投手として野球を始めた小久保選手は、地元の名門校・智弁和歌山高のセレクションを受けますが「投手は不合格、野手なら合格」といった結果を受け、投手としての道を諦められず、県立星林高へ進学します。

甲子園出場を目指し3年夏には県大会準決勝へ進みますが、皮肉なことに弟・隆也氏が主力選手として活躍する智弁和歌山高に敗退。そして青山学院大へ進学後、投手デビュー戦で炎上し、監督に野手転向を言い渡されてしまいます。

才能ある弟への劣等感、2度目の投手失格の烙印を押された小久保選手ですが、内野手に転向するとあっという間に大学球界No.1スラッガーとして頭角を現します。

そして1992年バルセロナオリンピック野球日本代表に大学生から唯一選出され、1993年ドラフト2位でホークスを逆指名。しかし入団が決まった時も地元・和歌山では、弟さんが入団したと勘違いされたほどでした。

ホークス入団後2年目となる1995年には王貞治監督の元、レギュラーに定着。俊足と長打力を活かし、リーグ最多となる三塁打9本・28本塁打を放ち、初の本塁打王に輝きます。

例年の本塁打王より少ない本塁打数での受賞に実力不足との声も上がりましたが、2年後の1997年には36本塁打・114打点をあげて打点王を獲得。本塁打王の実力を証明すると同時に、リーグ最多の37二塁打・1999年には史上7人目となる満塁ランニング本塁打という俊足を生かした記録も残しています。

そんな小久保選手は自らを、決して天性のホームランバッターではなかったと語ります。

確かに小久保選手のルーキーイヤーの本塁打はわずか6本。小久保選手は当時12球団一の規模を誇る福岡ドームを前に、どうしたらこの球場を攻略できるかを考えました。

美しいフォーム、美しいアーチ

小久保選手の打撃フォームは豪快というより華麗。キレイで無駄のないフォームはフォロースルーが大きく、片手を高々と上げたフィニッシュを覚えているファンも多いのではないでしょうか。

このフォームには、力の弱い選手がボールを飛ばすために身体を最大限に使った、力の伝え方が詰まっていました。

ボールをとらえるまでは猫背でかまえ、インパクトの直前に両脇を絞め、同時に両足を内側に絞り込むことで力を凝縮させます。そして膝と腰のバネを使い、インパクトからあとは腹筋と背筋の力を最大限利用して一気にその力を解放させ、真上に跳ね上げるイメージでボールを押し込みます。渾身の力はボールに伝わり、最後にヘッドが上に抜けていきます。

「すべての力が伝わらない限り、福岡ドームではホームランにならない。」小久保選手は試行錯誤の中、下半身の強化・打球の角度など修正を重ね、自身の持つ力を余すところなく伝えるフォームを確立しました。

すべての知恵とパワーを乗せた小久保選手の打球は外野手の頭上で伸び、2001年には自身最多となる44本塁打を記録。

セ・パ両リーグでシーズン40本以上の本塁打を放った日本人選手は、田淵幸一選手・落合博満選手・小久保選手の3名。

また、大卒で400本塁打と2000本安打を共に達成した選手は、長嶋茂雄選手・山本浩二選手・金本知憲選手・小久保選手の4名のみという大偉業を成し遂げました。

1995年
打率.286  76打点 28本塁打
※本塁打王

1996年
打率.247打率  82打点 24本塁打

1997年
打率.302 114打点 36本塁打
※打点王

1998年
打率.225  11打点  2本塁打

1999年
打率.234  75打点 24本塁打

2000年
打率.288 105打点 31本塁打

2001年
打率.290 123打点 44本塁打

2002年
打率.292  89打点 32本塁打

2004年
打率.314  96打点 41本塁打

2005年
打率.281  87打点 34本塁打

無償トレードと8度の手術

多くの一流選手に立ちはだかる壁が故障です。小久保選手もその例にもれず、5年目となる1998年から故障に悩まされます。しかしその数は他の選手と比べて群を抜いて多く、毎年のように慢性化した持病・負傷箇所に苦しんでいました。

1998年 右肩関節唇損傷

2000年 親指損傷・脇腹痛

2002年 背筋痛・肉離れ

2003年 
右膝前十字靭帯断裂・内側靭帯損・外側半月板損傷・脛骨・大腿骨挫傷

2006年 
右手親指内側側副靭帯剥離骨折

2007年 肋骨骨折

2008年 
三角線維軟骨複合体の治療のため左手首を手術

2011年 
右手第一末節骨剥離骨折・左第9肋骨骨折・首痛

2012年 腰椎・椎間板ヘルニア

大学時代にも手術を受け、小久保選手は合計8度の手術を受けています。

そんな状況の中、毎年のように故障・離脱がある不安定な成績と当時のフロントとの確執により、2003年オフに巨人への無償トレードが決まります。

このトレードは小久保選手自らが球団への不信感から申し出たものでしたが、小久保選手を慕う選手は多く、球団への不満から優勝旅行をボイコットする選手が相次ぐ事件となりました。

しかし小久保選手は、バラバラになりかけたチームに「お前たちはここで頑張れ、必ず戻ってくるから」と励まします。

一方移籍先の巨人では、レギュラーの確約もなくリハビリ明けという不安の中、鍼を打ちながら出場していたそうです。おりしも巨人では松井秀喜選手がFA権を行使し、大砲不在の状況。必ずチャンスはあるはずと、ここでも小久保選手は決して負けませんでした。

そして移籍初年度の2004年、小久保選手は自身最高打率の.314、巨人の右打者としては史上初のシーズン41本塁打という成績を残し、カムバック賞を受賞。

小久保選手のこういった姿は巨人でも選手からの信頼を集め、移籍選手初となるキャプテンを務めました。

2006年オフにはFA権を行使し、親会社が変わったホークスへ舞い戻ります。再びチームの中心選手となった小久保選手は、2011年に40歳1ヶ月という最年長日本シリーズMVPを獲得。満身創痍の中、2012年に2000本安打を達成すると、同年チームメイトに惜しまれながら引退を決めました。

通算成績
打率.273 2041安打 413本塁打 1304打点

本塁打王:1回

打点王:1回

ベストナイン:3回

ゴールデングラブ賞:3回

カムバック賞:1回

日本シリーズMVP:1回

人生に無駄は一つもない

小久保選手の苦難の多い野球人生には、前を向き続けたからこそ乗り越えられた神々しさがあります。

2003年に野球選手としては致命的な故障をした時も「人生で自分に降りかかってくることは必然であり、必要なこと。だからしんどいときに、いかに自分がベストで前向きな選択をしていくかだ」と、すべての逆境を学びに変えてきたそうです。

そんな小久保選手の背中を見て育った選手は小久保選手の意志を受け継ぎ、小久保選手が去った後もその姿をチームに波及させていきます。そして小久保選手自身もまた、指導者として素晴らしい影響を日本球界へ与えていくのでしょう。

小久保選手の未来と日本プロ野球界の未来に、期待したいと思います。

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