平成唯一の三冠王・松中信彦選手

どうもマツローです。

日本プロ野球界には、すべての野手が憧れる賞があります。それが“三冠王”です。1シーズンで首位打者・最多本塁打・最多打点を獲得した、その年最も優れた打者に贈られ、日本プロ野球の長い歴史の中でたったの7名・11度しか達成されていない偉業です。

そんな三冠王を平成という時代でただ一人、獲得した選手が松中信彦選手です。

松中選手が三冠王を獲得したのは2004年(平成16年)。その後14年たった今も獲得した選手はおらず、松中選手の前に獲得したのは1986年(昭和61年)の落合博満選手。このことからも、三冠王を獲得するのがいかに難しいことであるかが理解できると思います。

平成唯一の三冠王・松中選手は、福岡ダイエーホークス黄金時代の礎を築いた4番打者。史上初の3年連続120打点以上を達成し、WBCでも活躍した日本を代表する強打者でもあります。

今回はそんな松中選手が過ごした19年の野球人生を振り返りたいと思います。

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現役続行不可能な故障と木製バットの壁

松中選手は八代一高(現・秀岳館)在学中に、野球を続けられないほど重い左肘の故障を発症します。しかし当時からプロでも通用するほどの打撃センスが評価され、卒業後は新日鐵君津へ入社。

八代一高時代から合計5年もの間、利き腕ではない右手で守備を続けていましたが、結果手術を受けられることになります。守備の不安を払しょくした松中選手は1994年、アトランタオリンピックの4番を務め銀メダルを獲得。プロ野球界からの注目が一気に高まり、1996年ドラフト2位で福岡ダイエーホークスを逆指名しました。

しかし当時は、社会人野球で使う木製バットとプロ野球で使う金属バットの違いから「日本代表の4番は大成しない」と言われ、松中選手も入団して2年は試行錯誤を重ねます。

そして3年目となる1999年、レギュラーとして定着。小久保裕紀選手に次ぐチーム2位の23本塁打、チーム3位の71打点をあげ、ダイエーホークスとして初のリーグ優勝・日本一へ貢献しました。

ここから松中選手の快進撃が始まります。

飛躍の先に見えた三冠王

2000年からはチームの主軸として活躍し、多くの野手が目指す“3割・30本・100打点”超えを達成。連覇に貢献すると、翌2001年も前年の記録をすべて上回る記録を達成します。

そしていよいよ2004年、三冠王に輝きました。

日本プロ野球界において18年ぶりの三冠王となった松中選手の記録は、首位打者・最多本塁打・最多打点だけではなく、得点・安打数・塁打数・出塁率・長打率といった、打撃8部門でリーグ1位という驚異的な記録。

2005年には膝の故障から指名打者としての出場が増えますが、松中選手の打撃術はさらに凄みを増します。2006年の交流戦時には、松中選手曰く「変化球を待っていても150kmのストレートを打てる」という、“これ以上求めるものはない”と感じるほどの高みへと昇り詰めていったのです。

1999年 
打率.268  71打点 23本塁打

2000年 
打率.312 106打点 33本塁打

2001年 
打率.334 122打点 36本塁打

2002年 
打率.260  83打点 28本塁打

2003年 
打率.324 123打点 30本塁打 ※打点王

2004年 
打率.358 120打点 44本塁打 ※三冠王・最多安打・最高出塁率

2005年 
打率.315 121打点 46本塁打 ※本塁打王・打点王・最高出塁率

2006年 
打率.324  76打点 19本塁打 ※首位打者・最高出塁率

パワーと芸術的な内角打ちの両立

松中選手の特徴といえば、「芸術的な内角打ち」「芯を外して押し込むパワー」でしょうか。

バットを身体の後ろに引き、45度の角度に構えます。後ろ足へ体重移動をしながら足を上げ、前へ体重移動をします。この時に前の肩が開かないようにし、着地した足のつま先をホームベース側に向けることで壁を作ります。そして腰を回転させ、遅れて肩を回転させることで体幹周りの筋肉が引っ張られ、ヘッドを鋭く走らせることができます。

また、入団時に木製バットへの対応に悩んだ松中選手は、この時に木製バットで飛距離を出すコツをつかみます。それは「逆回転のスピンを与えること」「芯を少し外し、押し込むこと」でした。

インパクトの瞬間にバットをボールの下に滑り込ませ、逆回転のスピンを与えるのですが、この時にボールを芯にあててしまうとすぐに飛んでしまいます。そのため松中選手はあえて芯を外し、利き手できっちり押し込むことで飛距離を出しています。

この松中選手の“押し込むパワー”は外国人選手並みと言われており、きっちり体幹にためたパワーを身体ごと押し込み振り切ることで、松中選手の長打力のある内角打ちが実現できるのです。

また選球眼が良く、三振が非常に少ないことも特徴。シーズンを通して100三振以上を記録したことがなく、2度の最多四球を記録したこともあったほどでした。

松中選手の華麗な内角さばきは以下の動画でも見ることが出来ます。

故障との戦い

全盛期にあった2005年あたりから、松中選手は膝に不安を抱えることが多くなります。

この頃から肉離れなど下半身の故障が度々あったものの、焦りから完治せずに試合にでることで他の部分に負荷がかかり、別の箇所を痛めてしまいます。

松中選手はこうした怪我を重ねることで充分なトレーニングができなくなり、筋力も落ちてくるという悪循環に陥っていました。

そして2010年からは規定打席に届くこともなくなり、代打での起用や二軍生活が長く続きます。松中選手は三冠王のプライドを捨て、痛みと戦いながら現在の自分に合ったバッティングフォームを探し、全盛期とまではいかないまでも代打として結果を残します。

しかし2013年、自身の起用法への不満から交流戦優勝セレモニーをボイコットしたことがきっかけで、無期限の二軍落ちを経験。このことが直接の原因ではありませんが、怪我がちな松中選手の体調も相まって、2015年他球団への移籍を視野にホークスを退団しました。

その後はトレーニングを続け、自らも他球団へはたらき掛けるなど前向きな努力を続けますが、いずれも不調に終わり、2016年3月、現役引退を発表しました。

通算成績
打率.296 1767安打 352本塁打 1168打点

首位打者:2回

本塁打王:2回

打点王3:回

ベストナイン:5回

ゴールデングラブ賞:1回

ベストナイン:5回

無骨で不器用な野球人生のおわりに

三冠王受賞から10年余りが経ち、卓越したバッティング技術はあるものの、晩年は度重なる故障による好不調の波に逆らえなかった松中選手。

松中選手の引退には故障以外にも、その無骨な態度から誤解を受け、ある意味「扱いにくい選手」というイメージがついてしまったことも要因に挙げられると思います。

球団に逆らわず品行方正、コーチと見まごうようなベテラン選手が求められる中、松中選手はそういったベテラン選手ではないかもしれません。

しかし野球を続けられないほどの故障を乗り越え、三冠王を獲得するまでに成長することができたのは、ボロボロになるまで野球を続けたいという気力に支えられての偉業です。

今後は指導者として、松中選手のような“貫く美学”をもつ和製大砲を育ててほしいですね。

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