どうもマツローです。
今回は巨人のエースとして活躍した、テレビ解説者でお馴染みの江川卓投手について書いていきます。
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江川卓投手とは
“元祖・怪物”江川卓投手は中学を卒業して4ヶ月で初の完全試合を達成し、高校通算ではノーヒットノーラン9回・完全試合2回を達成。春の選抜では1つの大会で、未だ破られていない通算60奪三振という記録を残しています。
こういった記録以外にも、打席に立った打者が「160kmはでていた」、「低めの球がホップしてストライクになった」などといった、数々の逸話が残されています。
そんな江川投手の怪物伝説は主に高校時代が多く、自身の著書でも大学時代に肩を疲労骨折した後は「肩の調子が100%に戻ることはなかった」と、全盛期はプロ野球入り前であったことを語っています。
それでも江川投手と同時期にプロ野球界で戦った選手は、「江川選手こそ、史上最強の投手だった」と語ります。
どうして江川投手の球は、これほどまでに打てなかったのでしょうか。
80年代に一時代を築いた元読売巨人軍のエース・江川卓投手の現役時代を振り返ってみましょう。
逆風吹き荒れる中、巨人への入団
高校時代にその怪物の名をほしいままにし、数々の伝説を残した江川投手は、1973年ドラフト会議で阪急ブレーブスから1位指名されるも、これを拒否。六大学野球への憧れもあり法政大学へ進み、エースとして活躍します。
東京六大学リーグ最多となる通算48勝まで、あと1勝に迫る47勝をあげた江川投手は、1977年ドラフト会議でクラウンライターライオンズから1位指名されます。
しかし江川投手は指名を断り、アメリカへ留学。翌年1978年ドラフト直前に帰国し、俗に言う“江川事件”の後、阪神タイガースからトレードという形で巨人へ入団します。
こうして開幕から2ヶ月の一軍昇格自粛期間を経て、江川投手のプロ野球人生は始まりました。決して輝かしいスタートとはなりませんでしたが、ルーキーイヤーから9勝10敗をあげます。
勝ち星こそ負け越していますが、防御率はセ・リーグ3位、奪三振数はこの年最優秀防御率を受賞した平松政次投手と同数の138奪三振をあげています。2ヶ月の謹慎とルーキー投手であることを考慮すれば素晴らしい成績ですが、あの“怪物・江川”を思えば物足りなく感じるファンも多かったかもしれません。しかし翌年にはそんな物足りなさを払しょくするように、最多勝・最多奪三振を受賞する活躍をみせました。
1979年度セ・リーグ投手成績
平松 政次(大洋)
防御率2.39 13勝 7敗 138奪三振 ※最優秀防御率
西本 聖 (巨人)
防御率2.76 8勝 4敗 85奪三振
江川 卓 (巨人)
防御率2.80 9勝10敗 138奪三振
藤沢 公也(中日)
防御率2.82 13勝 5敗 129奪三振 ※新人王
小林 繁 (阪神)
防御率2.89 22勝 9敗 200奪三振 ※最多勝
そんな江川投手の持つ球種は、晩年になるとスライダーも投げていたものの、基本的にはストレートとカーブの2種類のみ。しかし江川投手のストレートとカーブは、ただ速いだけのストレートではありませんでした。
“わかっていても打てない”ストレート
江川投手のストレートの特徴としてよく言われているのが、「ホップするストレート」や「160kmは出ていた」という証言です。しかし、江川投手のストレートのデータを調べますと、実際の球速は最速でも151km/h。江川投手のストレートは打者にとって、実際の球速より早く感じられていた、ということになります。
この江川選手の“球速以上に速く感じるストレート”の秘密は、他の投手より多い縦回転のスピンにあります。投手としては短かった江川投手の指は、フォークなどの変化球を投げるには不向きでしたが、スピンをかけるには有効に働きました。そこで江川投手は、なるべく球離れを遅くして多くスピンをかけるように意識していたと言います。
一般的に縦方向の回転数が多いストレートはホップ方向への変化が大きくなり、回転数が少ないストレートと比べて揚力が強いといわれています。
このことから江川投手の球は、そもそもが速かったうえに「ホップ方向への変化量の大きいノビのあるストレート」だったのではないかと推測されます。
さらに江川投手は人並外れたスタミナで、9回まで投げても150kmを記録していました。
人より多くバックスピンのかかった速球を試合終盤まで投げられては、打者はたまったものではありません。
そして、江川投手にはもう一つの魔球・カーブがありました。
“2階から落ちてくる”カーブを封印
高校時代の江川投手のカーブは落差が大きく、当時“2階から落ちてくるようだった”といわれていました。
しかし江川投手曰く、プロ野球入りしてからはこのような落差の大きなカーブは投げていないとのこと。
高校時代は「かすりもしない」といわれていたこのカーブは、プロ野球選手相手では攻略されてしまうということに気付いた江川投手は、あえて落差の大きなカーブを封印。
そしてカウントの取れる「高速カーブ」と、打者のタイミングを外し打ち取ることができる「5本指カーブ」を使い分けることで、打者をねじ伏せていったのです。
江川投手は「ホップ方向への変化量の大きなノビのある速球」と「2種類のカーブ」を武器に、3年目の1981年に最多勝・最優秀防御率・最多奪三振・最多勝率・最多完封という、プロ野球史上6人目となる投手五冠に輝きました。
1979年 9勝10敗 防御率2.80
1980年 16勝12敗 防御率2.48
1981年 20勝6敗 防御率2.29
1982年 19勝12敗 防御率2.36
1983年 16勝9敗 防御率3.27
1984年 15勝5敗 防御率3.48
1985年 11勝7敗 防御率5.28
1986年 16勝6敗 防御率2.69
1987年 13勝5敗 防御率3.51
江川投手は1987年に長年痛めていた右肩に限界を感じ、球団の慰留を押し切って引退を決意します。9年間のプロ野球生活の成績は、135勝72敗3セーブ。9年で割ると毎年15勝あげている計算になります。
江川投手の高校時代に築いた伝説を思うとこの記録はかすんでしまうかもしれませんが、現役時代に江川投手と対戦した打者は、口々に「江川投手こそ最強の投手」と絶賛します。
そこには対戦した打者にしかわからない、江川投手が最後まで大切にした思いがあったのです。
実働9年 135勝72敗・防御率3.02・1366奪三振
最多勝:2回(1980-1981年)
最優秀防御率:1回(1981年)
最多奪三振:3回(1980-1982年)
最高勝率:2回(1981年、1984年)
MVP:1回(1981年)
投手5冠:(1981年)※史上6人目
ストレートにかける思い
現役時代、ライバルといわれた掛布雅之選手は江川投手を、「ストレートへの強いこだわりを持ったボールを感じさせてくれる唯一の投手だった」と語っています。
その言葉通り、江川投手は各球団の強打者と対決するときも、甲子園で最後の1球となった渾身の一球も、ホームランを打たれ現役引退を決めたといわれる広島・小早川毅彦選手への一球も、ここ一番というときは渾身のストレートを投げていました。
その一球に、魂を込める。
その姿にすべての投手は憧れ、すべての打者は魂を燃やす。
高校野球・大学野球、そして日本プロ野球界に数々の伝説を残した江川卓選手が現役を引退し、30年あまりの月日が経ちます。
しかし今をもってなお、新たな投手が台頭すればオールドファンは「でも、あの頃の江川はもっとすごかった」と目を輝かせて語るのです。それは、そんな魂の対決を目の当たりにしたファンにしかわからない幸せな記憶なのかもしれません。
そしてその伝説は、これからも語り継がれていくのでしょう。
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