栄光と挫折・上原浩治選手の野球人生を振り返る

2019年5月、シーズンもまだ序盤の頃、巨人・上原浩治選手がシーズン途中での引退を発表しました。

この時に「もうユニフォームを着ることはない」と語り、シーズン終了後の華やかな引退セレモニーもなく、静かにその野球人生に幕を下ろしました。

上原選手は、NPBでは日本を代表するエースとして活躍し、MLBでは日本人初のワールドシリーズ胴上げ投手を経験。

日本人投手として史上初となる、日米通算100勝・100セーブ・100ホールドの“トリプル100”を達成した、野球選手なら誰もが憧れる経歴を持ちます。

しかし、大学までは全国的に全く無名の選手。それどころか、満足に野球に打ち込める環境下にすらありませんでした。

これほどの大偉業を成し遂げられたのは不遇の時に培われ、上原選手の代名詞にもなる「雑草魂」を胸に立ち向かってきたからです。

今回は上原選手が歩んだ、誰よりも熱い野球人生を振り返りたいと思います。

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雑草魂を胸に…上原浩治選手のプロフィール・アマチュア時代

選手名  :上原 浩治(うえはら こうじ)

生年月日 :1975年4月3日

身長体重 :187cm・87kg

ポジション:投手

投球・打席:右投右打

経歴   :東海大学付属仰星高→大阪体育大→読売ジャイアンツ→ボルチモア・オリオールズ→テキサス・レンジャーズ→ボストン・レッドソックス→シカゴ・カブス→読売ジャイアンツ

受賞歴  :最多勝利2回・最優秀防御率2回・最多奪三振2回・最高勝率3回・新人王・沢村賞2回・ゴールデングラブ賞2回・ベストナイン2回

大阪で生まれ、小学校の頃に父親が監督を務める地元野球チームで野球を始めた上原浩治選手。中学には野球部がなく、陸上部で体力を養いながら同チームで野球を続けます。

進学した東海大学付属仰星高には野球部があり、やっと思い切り野球ができる環境に喜ぶも、当時の上原選手の役割は主に打撃投手。控え投手の傍ら、陸上部で鍛えられた脚力を見込まれ、初めての試合出場は1番・中堅手でした。

卒業後は体育教師を目指しますが、推薦を受けられなかったため一般入試で大阪体育大の入試に臨みます。しかし結果は不合格。浪人生活を余儀なくされます。

この浪人時代を上原選手は後に「この1年ほど燃えた1年はない」と語ります。上原選手は毎日予備校へ通いジムで身体を作り、家計の負担を減らすために警備員や引っ越しなどのアルバイトをして生活していたそうです。

そして翌年、無事に合格し野球部に入部した上原選手は、周囲が驚くほどの成長を遂げていました。図らずも1年間のジム通いでしっかりとした身体作りができ、上原選手の球威は高校時代よりはるかに増していたのです。

大体大ではエースとして活躍し、大学通算リーグ優勝5回を達成。大学3年時に日米大学野球で大会タイ記録となる13奪三振を記録し、MLBからも注目されます。

そして引退後に語ったインタビューによると、大学4年時にあるMLB球団からの招待を受け、極秘渡米していたそうです。MLBの空気に触れ、心傾く上原選手でしたが、周囲の反対意見と当時の極東担当スカウトの「100%の自信がないなら来るな、絶対に成功しない」という言葉に断念。

しかしこの頃の経験は上原選手に強烈な印象を残し、のちのMLB移籍へと繋がっていきます。

そして1998年ドラフト会議で、逆指名で読売ジャイアンツへ入団が決まります。背番号は「19」。これには「大学受験に失敗し、辛かった19歳の頃の自分を忘れない」という思いが込められているそうです。

雑草は天を目指す!上原浩治選手のプロ野球人生

巨人へ入団した上原浩治選手はルーキーイヤーに20勝をあげ、最多勝利・最優秀防御率・最多奪三振・最高勝率を受賞。

ルーキーとしては史上3人目の投手4冠に輝きます。他にもベストナインやゴールデングラブ賞・新人王も受賞し、20世紀最後の沢村賞も受賞

翌2000年には右太ももの故障を抱えながらもリーグ優勝。チームの日本一に貢献しました。

2002年は最多勝・最高勝率を受賞し、2度目の沢村賞・ベストナイン、日本一にも輝きます。同年は日米野球で初のトップリーグでの日本代表に選出。

その後2004年アテネ五輪・2006年第1回WBC・2008年北京五輪でも日本代表選手に選ばれます。

WBCでは大会最多の16奪三振を記録。国際大会無敗という成績は、MLBから注目を集めました。

2007年はチーム事情から抑えも経験。そしてNPBで2度の沢村賞・最多勝利・最優秀防御率・最多奪三振を受賞し、3度の最高勝率を獲得した上原選手は、2009年1月、満を持してボルチモア・オリオールズへ移籍を決めました。

オリオールズでは開幕から先発ローテーションに入り、初登板で初勝利。しかしシーズン半ばに右ひじ腱の部分断裂により故障者リスト入りし、翌2010年に中継ぎとして再スタートします。この年は抑えも経験し、敗戦処理の中継ぎから抑えまで、チームに献身を尽くすように投げ続けました。

その結果43試合に登板し、防御率2.86・6ホールド13セーブの成績を残します。後から振り返ればこの1年の活躍が、上原選手のMLBでの位置づけを決めたように思います。

その後、2011年7月にテキサス・レンジャーズへトレードされ、中継ぎとして65試合に登板。その年の四球は僅か9という抜群の制球力を見せ、ポストシーズン出場に貢献しました。

上原選手自身も、ア・リーグ西地区1位となるWHIP0.72を記録。翌2012年はさらにそれを上回るWHIP0.64を叩き出し、中継ぎ・抑えとしての信頼を確固たるものとします。

2012年オフには上原選手を巡るFA争奪戦が始まります。そして上原選手がMLBで最も輝いた運命のチーム、ボストン・レッドソックスへ移籍することとなりました。

名門ながら前年は最下位に沈んだレッドソックスのチーム再建は、上原選手の魂に火をつけます。

移籍した2013年はシーズン途中から抑えを務め、日本人投手歴代最長の26試合連続無失点を記録。救援投手としてはMLB史上2位となる37人連続アウトを達成し、チームの地区優勝・リーグチャンピオンシップシリーズ優勝を決めます。

緻密な制球力でリーグチャンピオンシップシリーズMVPに選ばれた上原選手の快進撃は、ついにワールドシリーズまでチームを導き、日本人初のワールドシリーズ胴上げ投手となったのです。

この年は73試合に登板し、防御率1.09・13ホールド・21セーブ・101奪三振の成績をあげ、与四球は9(敬遠2を含む)。シーズン途中から抑えに回ったためセーブ数こそ伸びませんでしたが、シーズン100奪三振を超えたのは、救援投手では球団史上初。シーズンWHIP0.57は救援投手でのMLB記録となり、プロ野球生活15年目で最高のシーズンを過ごしました。

その後、2016年までのシーズンをレッドソックスで過ごし、2017年にシカゴ・カブスへ移籍。カブスをFAとなり、2018年に巨人へ復帰します。そして7月にホールドを記録し、世界で2人目、日本人では史上初となる日米通算100勝100セーブ100ホールドを達成したのです。

2019年は球界最年長投手となった上原選手。しかし二軍でも自分の球が打ち返される現実を受け、5月に引退を発表しました。

上原浩治選手 NPB・MLB成績

NPB(11年):
312試合 112勝67敗 33セーブ 23ホールド 1400奪三振 防御率3.02 WHIP1.01

MLB(9年):
436試合 22勝26敗 95セーブ 81ホールド 572奪三振 防御率2.66 WHIP 0.89

永遠の挑戦者、上原浩治選手の特徴・投球フォーム

上原浩治選手といえば、アマチュア時代から抜群の制球力と球のキレが特徴です。

9イニングあたりの与四球数を数値化した「与四球率(BB/9)」では、NPBで1000投球回以上・200投球回以上投げた投手の中で歴代1位を誇ります。

NPB通算与四球率(BB/9)ランキング

1位 上原浩治(巨人)   
1.20 1583.2投球回/211与四球

2位 土橋正幸(東映)   
1.21 2518.1投球回/339与四球

3位 武田勝(日ハム)   
1.38 1242.2投球回/190与四球

4位 大崎三男(阪神・近鉄)
1.41 1107.2投球回/174与四球

5位 高橋直樹(東映・日ハムなど)
1.48 2872.2投球回/473与四球

そして与四球1個あたりの奪三振数を数値化したK/BBでも、2位以下に大差をつけての1位です。

NPB通算K/BBランキング

1位 上原浩治(巨人) 6.68

2位 土橋正幸(東映) 4.61

3位 杉浦 忠(南海) 4.29

4位 前田健太(広島) 3.87

5位 成瀬善久(ロッテ・ヤクルト・オリックス)3.79

※1500投球回以上

さらにMLB移籍後も9年間での通算与四球率は1.46。通算K/BBは、日本での成績を上回る7.33を記録します。これは400投球回以上投げた2635名の中で1位の記録です。

NPBとMLB、共に歴代1位のK/BBを誇る上原選手。先発時は平均140km/hのストレートと最速149km/hのストレートを投げ分け、スライダー・カットボール、上原選手の代名詞でもあるフォークを操ります。

MLB移籍後の中継ぎ・抑え時は、ほぼ前述の2種類のストレートとフォークを軸に、テンポの良い投げっぷりで三振を量産しました。

その投球フォームはテークバックが小さく、球の出どころか見づらいのが特徴。

捕ってから素早く手をトップの位置にもっていく野手のような投げ方で、上原選手曰く巨人時代に中堅手を務めていた高橋由伸選手の投げ方が理想と語っています。

踏み出す脚を胸につくほど高く上げるのも特徴。曲げた脚を延ばしながら、重力を利用して流れるようにスムースに重心を移動していきます。ストライドはやや小さめで沈み込みも深くなく、軸足の膝を素早くホーム側に向けるため、軸足を強く蹴ることができます。

この力と重力・腕の振り、すべての加速をボールに乗せ、リリース時には指でボールを強く切るようにリリースします。

この一連の動きがキレとコントロールの良さを生み、2400回転を超えるボールの回転数を生み出しているのです。

永遠の挑戦者・上原浩治選手の色濃い野球人生

少年期は満足に野球ができる環境になく、野球から離れた浪人生活も経験。大学で華々しい活躍を見せるも巨人入団2年目より故障に悩まされ続け、レンジャース時代はポストシーズン進出に貢献するもワールドシリーズでの登板はなく、栄光と挫折を味わってきた上原浩治選手。

その歴史は「雑草魂」と共に歩み続けた歴史でもあり、そんな上原選手には「永遠の挑戦者」という言葉が良く似合います。

引退会見では開幕から3ヶ月が勝負だと決めていたこと、一軍で通用しないならチームに迷惑をかけたくない、若手の実戦の場を奪いたくないと語り、涙を隠さず誠実に答える姿が印象的でした。

思えば上原選手はルーキーイヤーの敬遠指令に悔し涙を流し、勝負所で打者を抑えた瞬間や優勝が決まった瞬間は派手なガッツポーズを見せる、感情豊かな選手でした。一球一球がクライマックスのような熱狂に私たちは魅了され、海を渡っても上原選手を追い続けたのだと思います。

万雷の拍手と「コージコール」が、置かれた場所で咲く雑草に唯一無二の価値を贈ります。これからも枯れ続けることのない雑草魂を胸に、活躍する上原選手を楽しみにしています。

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