努力する孤高の侍・小笠原道大選手

どうもマツローです。

「神主打法」から「振り子打法」まで、プロ野球選手の打撃フォームには様々な個性があり、選手の特性を生かしたそのフォームの理由を探ると、その選手の大切にしてきたものが見えてきます。

名付けられてはいないものの、小笠原道大選手もそんな個性的な打撃フォームをもつ選手の一人でした。小笠原選手の打撃フォームは、バットを上段に構え、身体から離して刀のように斜め前へ出す独特のフォーム。落合博満選手の神主打法にも似ていますが、その姿は神主というより“侍”のような気迫が感じられます。

そんな小笠原選手は現役時代、セ・パ両リーグをまたにかけ、2度の首位打者本塁打王打点王をそれぞれ1度ずつ受賞した、安定した高打率長打力を兼ねそろえた選手でした。積み上げてきた記録だけを見ると、順風満帆の野球人生を過ごしてきた選手と思えますが、小笠原選手の現役生活は決して平坦な道のりではなく、むしろ泥臭さにあふれた毎日だったように思えます。

今回はバット1本で球界を代表する選手となった“孤高の侍”小笠原選手の野球人生を振り返ります。

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バントをしない超攻撃的2番打者

小笠原選手は暁星国際高校を卒業し、NTT関東を経て、1996年ドラフト会議で日本ハムファイターズから3位指名を受け入団。

高校時代は特に目立った選手ではなく、ミート主体の打撃で通算本塁打は0本。NTT関東入社後、本塁打は増えたものの、2001年まで社会人野球では金属バットが使用されていたため、日ハム入団当初は内野の芝の切れ目までも打球が飛ばなかったそうです。

そんな小笠原選手の打撃開花のきっかけとなったのが、当時打撃コーチだった加藤 英司(秀司)コーチでした。

木製バットに対応し早く結果を出すために、バットの振り込み・走り込み・体幹強化にウエイトトレーニングと、できることはすべてやった、と小笠原選手は語ります。

加藤コーチの指導の下、下半身・体幹を鍛えた小笠原選手は、それまでミート主体だった打撃から身体をフルに生かしたフォームへと変化を遂げます。

その努力が実り、2年目の1998年から代打としての出場が増え、翌年これまで捕手として出場していた選手登録を、打力を生かすために一塁手に転向。あっという間に2番打者としてレギュラーに定着し、打率.285・25本塁打・83打点という、まるで中軸を担う打者であるかのような結果を残します。

当時のチーム方針でバントや小技を繰り出す2番打者ではなく、小笠原選手の持ち味であるフルスイングを活かせたことも功を奏しました。小笠原選手は“バントをしない恐怖の2番打者”として恐れられ、当時の日ハム打線の愛称であった「ビッグバン打線」の一角を担う活躍を見せたのです。

刀剣乱舞のフルスイング

飛躍のきっかけとなった加藤コーチの指導で、小笠原選手は自身の代名詞となる“フルスイング”を急速に確立していきました。

それは闇雲に力に任せて思い切り振る、ということではなく、軸がブレずに自分の正しい打撃フォームで全力で振り、しっかり振り切るということ。

加藤コーチが口を酸っぱくして伝えたことはただ一言「コンパクトに、そしてしっかりと最後まで振れ」ということでした。

小笠原選手はこの頃に加藤コーチの影響で、ヘッドを立てて上段に構える「侍スタイル」にたどり着きます。トップの位置を深く取りながらしっかり肘をたたんで振り、フォロースルーまで最短距離でしっかりと振り抜く。こうしたしっかりとしたスイングを確立し、何度も正しく振り込むことで身体に叩き込みます。

そのためには、体幹を強くしブレずに振れるようにならなければならない、そしてフルスイングを支える下半身も粘り強くなければいけません。

実際小笠原選手は自身の著書で「僕の打ち方は、小さい野球少年にはあまりお勧めしない。なぜかというと、僕のは基本がしっかりあって、体ができ上がっているからこそのバッティングフォームなのだ」と、フルスイングの土台となる身体づくりの大切さを語っています。

プロ野球入りしたときに打球が内野の芝の切れ目までも飛ばなかった選手が、たった3年でレギュラーに定着。翌年には打者の目標である「3割・30本・100打点」を上回る成績を叩き出し、初のタイトルとなる最多安打を獲得するまでに、どれほどのフルスイングを繰り返してきたことでしょう。

“もっといいバッターになりたい。ヒットはもちろんホームランも打って、どんな状況でも結果を出せる選手になりたい”
小笠原選手のこれまですべての努力が土台となり、全身全霊のフルスイングを支えます。こうして小笠原選手は日ハムを代表する打者からパ・リーグを代表する打者へと成長していったのです。

レギュラー定着後の打撃成績
1999年 156安打 打率.285 25本塁打 83打点

2000年 182安打 打率.329 31本塁打 102打点 ※最多安打

2001年 195安打 打率.339 32本塁打 86打点 ※最多安打

2002年 165安打 打率.340 32本塁打 81打点 ※首位打者

2003年 160安打 打率.360 31本塁打 100打点 ※首位打者・最高出塁率

2004年 130安打 打率.345 18本塁打 70打点

2005年 145安打 打率.282 37本塁打 92打点

2006年 155安打 打率.313 32本塁打 100打点 ※本塁打王・打点王

挑戦し続けた侍

2006年FA権を取得した小笠原選手は、2007年、読売ジャイアンツへ移籍します。全盛期を迎えていた小笠原選手は、前年に続いて史上2人目となるセ・パ両リーグでのMVPを獲得し、安定した高打率と長打力を持ち合わせた、日本を代表する打者になっていました。

そして2011年には歴代4番目の早さで2000本安打を達成。この年からNPBではボールが飛びにくいとされた“統一球”を導入し、対応に苦しみながらの偉業達成でした。

しかしハードな練習と常に全力プレーの代償は決して小さくなく、この頃から度重なる怪我や故障に悩まされるようになります。小笠原選手はどんな状況でも自信を研鑽し続けますが、ついに2013年出場機会が激減したことをきっかけに、2014年に2度目のFA権を行使し中日ドラゴンズへ移籍します。

新天地で小笠原選手は、代打の切り札として奮起。そして代打として6打数連続安打を記録するなど、81試合に出場し打率.301と、見事な復活をみせました。

そして小笠原選手は2015年9月、引退を発表。19年の選手生活に別れを告げました。

通算成績
2120安打・打率.310・378本塁打・1169打点

首位打者:2回(2002-2003年)

本塁打王:1回(2006年)

打点王:1回(2006年)

最多安打:2回(2000-2001年)

最高出塁率:1回(2003年)

MVP:2回(2006-2007年)※史上2人目の両リーグMVP

ベストナイン:7回

ゴールデングラブ賞:6回

日本代表歴
2004年アテネオリンピック
2006年、2009年WBC

涙なき笑顔の引退試合

レギュラーシーズンも終わりに差し掛かった2015年9月、ナゴヤドームで行われた古巣・巨人戦で現役最後の試合を迎えた小笠原選手は、終始笑顔でした。そして最後の打席、最後のフルスイングはライトフライ。その打球を見届けた小笠原選手の表情は、どこかほっとしたような、すべてをやりきったような静かな笑顔を浮かべていました。

涙を流すことも派手なガッツポーズをすることもなく、最後までフルスイングで終われた誇りを胸に笑顔で去っていった小笠原選手は、最後まで志し高き“侍”であり続ける姿を見せてくれました。
小笠原選手のこの誇り高き精神が、また次の若い世代に受け継がれていくことを、心から願っています。

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