NPB最強の打者“オレ流”落合博満に迫る

どうもマツローです。

20年の現役時代にロッテオリオンズ・中日ドラゴンズ・読売ジャイアンツ・日本ハムファイターズの4球団を渡り歩き、3度の三冠王を獲得した落合博満選手ほど、たくさんの伝説と逸話を残した選手はいないのではないでしょうか。

周りの意見に左右されることなく独自の技術を貫き、結果を出す生き方は「オレ流」と称され、その言動に世間の注目は集まりました。

その卓越した打撃論や、NPBでは異質ともいわれた存在感については語りつくされた感があり、中には当時の背景や状況を鑑みず、伝説だけが独り歩きしているかのような話もあります。

しかし、落合選手が3度も三冠王を獲得した素晴らしい打者であることは、まぎれもない事実。しかも3度も三冠王を獲得した選手は、落合選手以外にいないのです。

では、なぜ落合選手だけが3度も三冠王を獲得できたのでしょうか。ここでは落合選手が獲得した3度の三冠王をそれぞれに分け、経過を振り返っていきたいと思います。

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1982年 最年少三冠王

落合選手のプロ野球生活の始まりは遅く、秋田工業高校から東洋大へ、さらには社会人野球の東芝府中を経て、1978年ドラフト会議でロッテオリオンズから3位指名を受け入団。当時すでに25歳となっており、これは2000本安打達成者の中で最も遅いプロ野球入りとなります。

入団後、先輩であった捕手の土肥健二選手の柔らかいリストの使い方を参考に、身体の前でゆったりとバットを構える神主打法を会得します。さらに当時の監督であった“内角打ちの名手”山内一弘監督の指導により、内角球の弱点を克服すると、1981年に初のタイトルとなる首位打者を獲得しました。

そして翌年の1982年に史上最年少で、首位打者・本塁打王・打点王三冠王を獲得。この年は他にも150安打を放ち、最多安打を獲得。最高出塁率.431を叩き出し、MVPにも選ばれます。

また、二塁打・長打率でもリーグ1位となり、28歳という年齢ながらも、プロ野球入り3年で高い打率と長打力を併せ持つ、チームを代表する選手として存在感を示しました。

1982年打撃成績
150安打 打率.325 32本塁打 99打点

1985年 圧巻の三冠王

1982年に初の三冠王を獲得した落合選手でしたが、過去に三冠王を獲得した野村克也選手や王貞治選手の記録に比べ、落合選手が打ち立てた記録のどれもが突出した記録ではないと、野球評論家の豊田泰光氏の批判を受けます。

しかし落合選手の打撃はそんな批判をよそにますます凄みを増し、1983年に3年連続となる首位打者を獲得。そして1985年に2度目の三冠王を獲得します。

この年の記録を見ると、打率.367は当時の右打者歴代最高打率52本塁打は当時のパ・リーグタイ記録146打点は現在もパ・リーグ記録という、圧倒的な記録を叩き出しています。

この年には他に、出塁率でもリーグ1位、長打率は驚異の7割を超えました。また、.492という得点圏打率は、今でも破られていない日本記録です。

このような大記録を達成できた理由のひとつには、落合選手が師と仰ぐ稲尾和久監督の存在がありました。

1984年からロッテの監督に就任した稲尾監督は、同年に一時的に大不振に陥った時も決して落合選手を4番から外すことはせず、人目を避け、ひとり一番最後までバットを振り続ける落合選手の苦悩を見守り続けます。そんな二人は選手と監督という垣根を超え、時々2人で飲みに行っては野球談議を重ね、時には大激論を交わしていたそうです。

実は話し好きだという落合選手。しかしこの頃、辛く孤独な戦いをしていた落合選手の苦悩を理解する数少ない理解者が、稲尾監督でした。

稲尾監督の選手を信じる姿勢や、常に選手が活躍できることを考え選手を守る姿は、のちに落合選手が中日で監督を務めていた頃の、選手を見守る姿に重なります。

こうして2度目の三冠王獲得を支えた稲尾監督の姿は、落合選手の野球人生に大きな影響を与えたのです。

1985年打撃成績
169安打 打率.367 52本塁打 146打点

1986年 2年連続三冠王

2度目の三冠王を獲得した落合選手は、翌1986年も三冠王獲得宣言をし、シーズンに臨みます。もうこの頃になると、落合選手のこの発言をビッグマウスと揶揄する声はありません。6月に首位打者・7月に本塁打王の座に立ちますが、8月に調子を落とし、首位打者争いをブーマー・ウェルズ選手と、本塁打王・打点王を秋山幸二選手とくり広げ、両社との争いはシーズン終盤まで続きました。

この年の落合選手は勝負を避けられ四球が多く、リーグ最多となる101四球を記録します。そして10月にこの年初めてとなる打点トップに立つとそのままシーズンが終了。最後まで熾烈なタイトル争いの末、NPB史上初となる3度目の三冠王を獲得しました。

また、NPB史上初となる2年連続50本塁打以上達成や、今も破られていない.487という出塁率を記録し、2年連続の三冠王獲得は王貞治選手・ランディ・バース選手に続いて3人目。そしてNPB史上唯一となる、3度の三冠王に輝いたのです。

1986年打撃成績
150安打 打率.360 50本塁打 116打点

しかしこのように素晴らしい成績を収め続けた落合選手の年俸は高騰を続け、ついにロッテが根を上げます。また、この年限りで稲尾監督の解任が決まり、落合選手は「稲尾さんがいないロッテに俺がいる意味はない」と、自らトレードを志願。翌年からはセ・リーグへ活躍の場を移し、中日で7年・巨人で3年・日ハムで2年を経験したのち、1998年現役を引退しました。

通算成績
2371安打・打率.311510本塁打1564打点出塁率.422

首位打者:5回(1981-1983年、1985-1986年)

本塁打王:5回(1982年、1985-1986年、1990-1991年)

打点王:5回(1982年、1985-1986年、1989-1990年)

三冠王:3回(1982年、1985-1986年)※3回はNPB史上最多

MVP:2回(1982年、1985年)

ベストナイン:10回

三兎を追って三兎を得る

現役時代、「タイトルには取り方がある」といっていた落合選手は、解説者・中日ドラゴンズ監督を解任後の講演会で、「予定では三冠王は5回取る予定だったんです」と語っています。

落合選手によると3回三冠王を獲得した後、一時期野球に真剣に取り組んでない時期があったそうです。真剣に取り組んでいないというより、三冠王を取ることに集中できない時期があったのだとか。

また自身の著書でも「野球という仕事においては、二兎も三兎も追う気持ちがなければ、タイトル争いを制することはできなかった。三冠王は、まさに“三兎を追って三兎を得る”という気構えで成し遂げたものだ」と語っています。

大きな成果を上げようと取り組んだことにより、誰よりも多くバットを振り、現役時代のすべての時間を野球に注ぎこんだ落合選手。その積み重ねが“NPB史上最強の打者”と呼ばれる男を作り上げました。

その孤高の求道者たる姿こそ、どんな逸話も超えるたったひとつの落合選手の真実なのかもしれませんね。

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