中日・岩瀬仁紀 最後の登板

どうもマツローです。

2018年10月13日、中日ドラゴンズ黄金期を支えた偉大な選手が、最後の登板を迎えました。

ルーキーイヤーから中日ドラゴンズの勝利の方程式の一角として、19年もの間支え続けた岩瀬仁紀投手。NPB最多となる前人未踏の1002試合登板、407セーブという唯一無二の記録を打ち立て、自らの花道としました。

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岩瀬投手のプロフィール

岩瀬投手は愛知県に生まれ、決して野球名門校ではない県立西尾高卒業後、愛知大で才能が開花。NTT東海を経て1998年ドラフト会議で逆指名で中日ドラゴンズへ入団しました。高校、大学、社会人、プロと全て愛知県のチームでプレイするなど、地元の選手として中日では絶大な人気を誇っていました。
※なお、リリーフエースとしてともに戦った浅尾拓也投手も高校、大学、プロと全て愛知県のチームです。

魔球“消えるスライダー”

そんな岩瀬投手ですが、入団当初のコーチには、コントロールが悪いと言われています。ストライクはほとんど投げない、しかしそのボールを打者はことごとく振ってしまう。その球こそ、のちに岩瀬投手の代名詞となる「死神の鎌」スライダーでした。

岩瀬投手の投げるスライダーは打者からは消えるように見え、コントロールが悪いと言われた球はいつしか魔球に。「消えるスライダーを投げる投手」というイメージを相手に完全に植え付け、そこからはもう岩瀬選手の独壇場でした。

最強守護神の葛藤

入団当初からしばらくは中継ぎエースとして大車輪の活躍をしていましたが、2004年からはチーム事情もあり守護神に抜擢。2007年の日本シリーズでは打者3人を背番号と同じ13球で退けるという「完全試合継投」で53年ぶりの日本一を決め、プロ野球ファンに“鉄腕・岩瀬”のイメージを強く焼き付けました。

勝っている試合を託され、最後の回を1失点も許さず勝ったまま終わらせる。そんな重圧のかかる場面でも、いつもマウンドで淡々としている岩瀬投手ですが、シーズン中はとにかく我慢の時期。ストレスには慣れるしかないと語っています。

もともとお酒が飲めない体質であることから、中継ぎとして起用された岩瀬投手。シーズン中のストレス解消法はなく、切り替えも下手。さらには「1試合抑えに失敗しただけで、それまでのことがすべて打ち消されたような気分になる」と、超がつくほどネガティブな自身の性格を語っています。

それでも岩瀬投手は失敗にとことん向き合います。本当は入団からずっと痛かった肘を隠し、弱みを見せず試合を投げ抜く日々。救援に失敗した日に寝ようとしてフラッシュバックに襲われて跳ね起きると、また自身の投球を考え直す。
そんな岩瀬投手の姿は決して“超人”“鉄人”ではなく、私たちと同じようにごく普通の人間に見えます。

シーズン中一番ひどいときはこぶし大の円形脱毛症が2つ、多いときには7つの円形脱毛症を隠しながら試合に出続けたそうです。
安堵のため息と脂汗を流しながら、1002試合、いや、日本シリーズとクライマックスシリーズの登板数を考えればその数を超える準備を重ね、誰にも真似のできない大記録まで歩み続けてきたのです。

ラスト登板 最後の打者は?

そんな岩瀬投手の最終登板、ここまでの苦労を知るファンや岩瀬投手本人も語っていたように「最後は楽しく笑って投げさせたい」。クライマックスシリーズも始まっているこの時期、誰もがそんな展開を望んでいました。

しかし岩瀬投手は同点で迎えた9回表、2死三塁で登板。最後の打者には中日時代の元同期で、常勝チームの主力同士だった阪神タイガース・福留孝介選手が代打で登場します。
結局、岩瀬投手の最後の登板は、最後の最後までいつも通り。最後はスライダーで空振り三振を取り、得点を許さずマウンドを後にしました。

「弱い僕の背中を押してくださって、本当にありがとうございました。」

3年が限界といわれる中継ぎ・抑えの世界の中、1002試合、チームに必要とされ、407回、チームとファンに喜びを与えてくれた。

試合後に行われた引退セレモニー、奇跡の投手の最後の言葉は、“鉄人”や岩瀬投手の通称“死神”とはかけ離れた、“人間・岩瀬仁紀”からの感謝の言葉でした。

この日の試合終了後、かつて同じく中日ドラゴンズで活躍した山本昌氏のTwitterには、同じ時代に活躍したエース・川上憲伸氏やリリーフエース・浅尾拓也投手、最後の打者となった福留選手とのお疲れ様会で楽しそうに笑う岩瀬投手が投稿されています。

死神と呼ばれた岩瀬選手は今、その鎌を静かに下ろし、穏やかな日々を過ごしているそうです。

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