中日・荒木雅博 23年を駆け抜けた真摯な背中

どうもマツローです。

9月13日、両リーグのクライマックスシリーズ開幕で盛り上がる中、中日ドラゴンズ・荒木雅博選手がナゴヤドームの今季最終戦で、23年のプロ野球人生に別れを告げました。

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荒木選手ってどんな選手?

荒木選手といえば、中日ドラゴンズ黄金期を鉄壁の守備で支えた名手。野球名門校・熊本工高から1995年ドラフト1位で入団し、ベストナイン3回ゴールデングラブ賞6回を獲得。誰もがアウトになると思うタイミングでも、華麗な走塁技術で球団最多の通算378盗塁を記録、通算2045安打を記録した選手と聞けば、華麗な経歴に目を見張ることでしょう。

しかし実際の荒木選手は、華麗とは無縁の努力の選手でした。結果、1995年ドラフトはくじを2度外し、もうくじはひかせられないと当初はドラフト4位での評価であった荒木選手を1位で指名。守備や走塁には高い評価を得ていたものの、その評価に甘んじていたのは、荒木選手の打撃技術でした。

実際荒木選手は、22年目で2000本安打を達成していますが、この記録はプロ野球史上2番目に遅く、当時33本のホームラン数は2000本安打達成者の中で最も少ない記録です。さらに2000本安打達成者の中で、入団5年目までに100安打を達成していないのは、荒木選手ただ一人。
このことからも、若い頃の荒木選手の苦労がうかがえます。

類稀な走塁技術

そんな若かりし頃の荒木選手を支えていたのが、子供の頃からずば抜けていたと言われる観察力盗塁技術でした。中日入団後、1年目から二軍では積極的に盗塁する姿を見せ、2年目にはその脚力を活かし代走や守備固めで63試合に出場。俊足を活かすため、スイッチヒッターにも挑戦しますが、なかなか打撃成績は向上しません。入団5年目までの荒木選手の安打数はわずか15本。しかし荒木選手は地道な努力を怠らず、ついに2001年シーズン後半には1番二塁手としてレギュラーを獲得しました。

レギュラー獲得後もその足を止めることはなく、荒木選手は日々努力を続けます。落合監督時代の過酷な「落合ノック」はあまりにも有名。そして“二塁の名手”としての地位を確固たるものとし、当時の遊撃手・井端弘和選手とのコンビで6度のゴールデングラブ賞を獲得します。

また盗塁に関しても6年連続30盗塁以上を記録するなど毎年盗塁王争いに絡む活躍をしていました。

常に準備を怠らなかった現役生活

しかし順風満帆にみえた荒木選手に再び苦難が訪れます。それが遊撃手へのコンバートでした。落合監督は荒木選手の二塁での守備に「慣れによる停滞」を感じ、遊撃手へコンバートすることで再び足の使い方を見直すこととなります。
そしてこの経験がのちに二塁手へ戻った荒木選手の守備を、唯一無二の名手へと引き上げたのです。

塁に出れば足を警戒される球界屈指の走塁技術、誰もが認める二塁の名手。

そんな荒木選手は引退会見で、ここまで現役選手を続けてこられたのは「下手なんだと思い続けて自分の力を信じることができなかったから」と語ります。

名手と呼ばれても努力を怠らず、常に相手投手に目を光らせる。その姿を入団2年目の京田陽太選手は「荒木さん、試合に出ようが出まいが、試合が終わったらクタクタになるんです。試合に出ている僕なんかより疲れていることもある」と語ります。
また引退会見で荒木選手は「やりきった感じ。やりきりすぎて涙も出ないです」と笑顔で答えました。

常に観察し、自身最高の答えを探す。数えきれない迷いと緊張感の中、試合に出ていない時もプレーをしているかのような無骨な努力を23年続け、苦悩すべてが今の荒木選手を形作ります。
引退試合では1番二塁でスタメン出場。最後の試合も盗塁を試み、最後の最後まで気持ちを切らすことなく進む姿勢を見せてくれました。

その地道な努力で23年の現役生活を駆け抜けた荒木選手の姿を、ファンはいつまでも忘れることはないでしょう。
そんな荒木選手に心からの感謝を送ります。

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