日本球界唯一の最優秀中継ぎ賞&沢村賞投手・攝津正投手が引退を表明

どうもマツローです。

福岡ソフトバンクホークスが2年連続の日本一の歓喜に沸く中、先発と中継ぎで数々のタイトルを獲得し、2012年には沢村賞も受賞したエース・攝津正投手が戦力外通告を受け、引退を発表しました。

今や常勝球団として毎年日本シリーズを争うホークスですが、2000年代終盤は世代交代により苦戦を強いられた時期があります。辛い時期にチームを支え、中継ぎに先発に獅子奮迅の働きをみせたエースが、他でもない攝津投手でした。

そんな攝津投手は、その真面目で実直・派手さのないコメントから、ホークスの顔ともいえるであるにもかかわらず、どちらかというと地味な印象を受ける方も多いのではないでしょうか。

今回は攝津投手の野球人生を振り返ります。

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遅咲きエースの開花・社会人時代

攝津投手は秋田経法大付高で3年時に春のセンバツに出場し、JR東日本東北へ入社します。入社後も2年間はほとんど登板機会がありませんでしたが、3年目にチームの体制が変わると試合出場機会が増えていきました。

同時にこの頃、東北地方の社会人野球界ではJTやNTTなど大きな企業の野球チームの解散があり、移籍してくる選手に指導を仰ぐなど良い影響を受けたことも功を奏します。

フォームが固まり制球に磨きをかけ、4年目にはエースに。そして技術面も精神面も成長し、社会人屈指の投手となった攝津投手の運命がついに動きます。社会人で実に8年間という長い年月を費やし、2008年ドラフト5位でホークスから指名を受け、入団が決まりました。

中継ぎと先発で唯一の受賞

即戦力を期待されていた攝津投手は、ルーキーイヤーとなる2009年に70試合に登板し、5勝2敗・34ホールドという成績をあげ、新人王・最優秀中継ぎ賞を獲得。翌2010年もファルケンボーグ投手・馬原孝浩投手に繋ぐ勝利の方程式「SBM」の一角として71試合に登板し、最優秀中継ぎ賞受賞とソフトバンクホークスとして初のリーグ優勝に貢献します。

この活躍が評価され、オフに球団より年俸1億円を提示されますが、自身の「3年やって1人前」というポリシーの元、自ら減額を申し出たことも話題となりました。

登板過多が心配された2011年からは先発に転向すると、瞬く間にエースへの階段を駆け上がります。中継ぎ時代の安定感はそのままに14勝8敗の成績をあげ、ホークスを日本一へと導きました。

特に2011年の中日との日本シリーズでは、優勝のかかった第7戦の9回に不調だった馬原投手に代わりストッパーとして登板します。

大方のホークスファンは9回に馬原投手が登板するだろうと思っていたため、9回のピッチャーに攝津投手がコールされとときの球場内のどよめきは凄い物でした。

当時の秋山監督によると「より確実に抑えれる可能性のある投手」ということで攝津投手を起用したとのことでした。

攝津投手は秋山元監督の期待に応え、危なげない投球を披露し、最後の打者は空振り三振に切って取り見事“日本一の胴上げ投手”となりました。

その後2015年まで5年連続二桁勝利をマークしますが、圧巻だったのは2012年。この年チームの柱であった和田毅投手・杉内俊哉投手・ホールトン投手が一気に移籍し、世代交代を余儀なくされた辛い状況の中、攝津投手はエースとして常勝チームを支えます。そして勝率.773という驚異的な数字と17勝をあげ、最多勝・最高勝率のタイトルを獲得し、沢村賞を受賞。NPB初となる、最優秀中継ぎ賞と沢村賞受賞者という快挙を成し遂げました。

2009年
5勝2敗 34ホールド 防御率1.47
※最優秀中継ぎ賞・新人王

2010年
4勝3敗 38ホールド 防御率2.30
※最優秀中継ぎ賞

2011年
14勝8敗 0ホールド 防御率2.79

2012年
17勝5敗 0ホールド 防御率1.91
※最多勝・最高勝率・沢村賞

2013年
15勝8敗 0ホールド 防御率3.05

2014年
10勝8敗 0ホールド 防御率3.90

2015年
10勝7敗 0ホールド 防御率3.22

卓越した投球センス

攝津投手の特徴と言えば、「抜群の制球力」「小さなテークバック」です。この特徴は社会人時代に培われました。

JR東日本東北入社3年目以降、主戦投手として投げ続けた攝津投手は、インタビューで「社会人当時は全力投球でストレートを投げたことがないんです。いつも力をセーブしながらコントロールに気を付け完投できるように、勝ち上がったら次の試合も先発・完投できるように、そんなことばかり考えながら8年間投げてましたから」と語っています。

時期によりハードな登板が続く社会人野球に揉まれ、攝津投手は高校時代までの豪快な投球フォームを捨て、無駄がない投球フォームを習得します。

完成した攝津投手の投球フォームは、ゆったりと始動し小さなテークバックからしっかりと腕をしならせ、コンパクトな腕の振りでリリース。左肩が開かないコンパクトなフォームは打者からは急に球が来るようにも見え、リリースポイントが見えづらいためタイミングを狂わされます。

そして社会人時代、平均球速135km前後だったストレートは、ホークス入団以降中継ぎとして登板すると最速148kmに。のちに先発に転向すると、ペース配分を考え平均球速は139kmに。これは先述したように、毎試合のように完投を期待され連投が多かった社会人時代に起因し、力を使い分けながら磨きあげた精緻なコントロールで打者を抑え込んでいったのです。

また、ほぼ変わらない投球フォームでストレート・シンカー・カーブを投げられることも、攝津投手の特徴。特にシンカーはチェンジアップのように抜く球と、スピンをかけて速めに落とす球との使い分けが巧みで、打者はカーブも頭にあるため判断力が鈍ります。

こういった卓越した投球センスが攝津投手を支えていました。

再びの世代交代にもがくエース

2016年は開幕前に日本代表に選ばれますが、その頃から陰りが見え始めます。実際は2014年あたりから筋疲労があったと言われており、二桁勝利をあげながらもシーズン通しての活躍が難しくなってきました。

おりしも若手の台頭などで登板機会に恵まれなかったこともあり、辛いシーズンは続きます。2018年は2年ぶりの勝利をあげ、復活を祈るファンと喜びを分かち合いますが、結果的にこの試合が最後の白星となってしまいました。

そんな攝津投手が戦力外通告を受けたのは11月。しかし本人の中で危機感があったため、10月の時点でみやざきフェニックスリーグでの登板を志願します。

そして今の自分を評価してもらいたいという意図もあり、12球団合同トライアウトは受けず、年内を区切りとしてホークス以外のNPB11球団からの獲得オファーを待ちました。

しかし残念ながら連絡がなく、2018年12月に引退を発表。

攝津投手は最後の勝利となった試合のお立ち台でファンの声援に声を詰まらせ、涙を流しました。引退を発表後、「真っ先に思い出すのはあの試合ですね。ファンのありがたみを心の底から感じ、本当に忘れられない試合となりました」と語り、深い感謝と共に10年間という短いプロ野球生活に幕を下ろしました。

通算成績
282試合 79勝49敗 1セーブ73ホールド
勝率.617 防御率2.98

新人王
最多勝:1回
最高勝率:1回
最優秀中継ぎ:2回
沢村賞:1回

背中で語るエースの美学

NPBの支配下登録期限は7月末までという規定があり、攝津投手のように身体に問題がない選手の中にはその期限まで他球団からの獲得を待つ選手もいます。しかし攝津投手は決断を先延ばしにせず「悔いはない。やりきった」と語り、静かに現状を受け入れました。そんな潔い姿にも、どことなく攝津投手の美学を感じます。

攝津投手の存在はスカウトの見る目を変え、真摯に野球に取り組む姿勢は次世代を支える若手投手の手本となりました。口数は少なく決して言い訳をせず、積み上げた地道な努力でホークス一時代を築いた遅咲きのエース・攝津投手の残した功績は、これからも指導者として活きていくのでしょう。

攝津投手の今後の活躍を、心よりお祈り申し上げます。

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